日本でのレーシック手術を行う場合、いくつもの眼科がありますね。ですが失敗しないためにも、リサーチは必要です。
友人たちによって作られたメモリアルキルトは、青い布地の左半分にデビッドの肖像を、右中央に名前を縫いつけている。
そして真ん中にはめこまれた赤いハート型の布には、故人が愛したペットの写真やクッキーの箱の一部、彼が使っていた名刺などが貼り付けてある。
それぞれのキルトには、それを作った人の解説が付いている。
「私たちはその写真を、火葬場へも持っていきました。
ドレーヌは彼のビジネスカードを、このキルトにそえました。
なぜならデビッドは自分の職業を愛していたからです。
彼はニューヨークのキルトでレストランのワイン給士長でした。
デビッドが病気になった時、そのレストランのオーナーたちは、彼をレストランの階上にあるアパートに引っ越しをさせ、そこで彼を看病しました」一枚の布に縫いつけてあるのは、エイズで亡くなった人が愛した人と、故人を愛した人の人生の断片である。
その人が愛用していたドレス、エプロン、ジーンズなどをそのまま縫いつけたキルトも多い。
キルトの縁取りに、何十本もの故人のネクタイをパッチワークしたものもある。
なかには絵筆や使いこんだパレッド、バスルームのシャワーカーテンなどまで工夫してとりつけられていた。
キルトを作る時、何を選んで縫いつけるか、亡くなった人を語りあいながらデザインを決めていく家族や友人たちの喪の時間が、何時間も積み重ねられたにちがいない。
布は人間の体を包んでいるものだから、亡くなった人の衣服には、たくさんの時間と思い出がしみこんでいる。
一九八五年に亡くなった俳優のつくったハドソンのキルトは、友人のデザイナーが作った。
特製の生地でくるんだボタンやベルト、ハリウッドの映画スタジオで使用する生地を使ったきらびやかな布に、やはりキラキラと輝く名前が大きく描かれている。
こうしたキルトを八枚ずつ縫いあわせ、正方形の大きなキルトにして展示する運動、が、一九八七年、アメリカのサンフランシスコで始まった。
本部の「ネームズ≒プロジェクト」には、一万人以上のキルトが寄せられていた。
これを地面や床に広げたり、天井から吊したりする展示は、アメリカだけでなく、世界三六力国を巡ってきた。
日本で初めて披露されたのが、一九九一年四月二日。
京都を皮切りに二ヵ月の間、福岡、広島、名古屋、金沢、松本、東京、仙台、旭川と九つの都市を回ることになっていた。
日本ヘメモリアルキルトを呼ぼうという運動は、エイズのボランティアをしている人のなかで、以前から検討されてきたことだった。
私か初めてメモリアルキルトの映像を見だのは、「HIVと人権・情報センター」の事務所で、一九八八年一〇月、代表のY.Kさんが興奮しながらキルトの説明をしてくれた時だった。
Y.Kさんたちは、一九八八年七月に情報センターをスタートさせている。
その頃、血友病患者やゲイの人たちは、それぞれエイズ患者・感染者を支援する活動を始めていたが、このセンターでは感染経路別の壁を取り払って、患者・感染者の人権擁護とケアを行っていこうとしていた。
「人も支えていくつもりや。
ごちゃごちゃしてるのがいい」と、Y.Kさんは自信ありげに言った。
センターとしては、「エイズ」に付着した社会防衛的なイメージを払拭するために、「HIV」を使うことを提唱。
エイズ予防法の反対運動や、エイズ電話相談、保健所での抗体検査の実態調査、エイズ差別を助長する映画やマンガへの抗議行動なども行ってきた。
また初期の段階から欧米のエイズにとりくむNGO(非政府組織)の活動を意識し、交流をもってきた関係で、サンフランシスコの「ネームズ≒プロジェクト」によるメモリアルキルト運動には、早くから着目していたのである。
今は一つになっているが、初めの頃は、新大阪駅近くの部屋を、障害者団体などと共同で借りて活動していた。
「キルトは現物を見てもらわんと、迫力が伝わらんのやけど……」とか言いながらY.Kさんはアメリカから持ち帰ったキルトのビデオをみせてくれた。
広々とした公園一面に広げられた布は、色とりどりできれいだった。
しかし実のところは、「ほほう……」という程度で、「HIVのイメージを変えていくには、これがいい」と太鼓判を押されても、その意味を十分理解したわけではなかった。
しかし、エイズ問題をテレビで取りあげるにはふさわしい素材かもしれないと思った。
何と言っても見た目に美しい。
人手と場所と資金が要る、ということは、キルトをめぐって、たくさんの人が動かなければならないわけで、これもまた取材しやすい。
日本とアメリカのNGOの連帯という、新しい状況を描くこともできる。
また感染者が表に出にくい日本でも、匿名のキルトなら作れる可能性があるし、そうなれば感染者の運動としても新しい展開となるだろう。
エイズの番組をどう作っていくか、頭を悩ませていた私には、このキルト運動は魅力的だった。
しかし、いつも様な構想を同時にいっぱいかかえているY.Kさんの口ぶりからは、日本での開催がいつ頃のことになるのかわからなかった。
当面の活動は、エイズ予防法案反対運動で、私もその取材で彼を訪ねたのだった。
キルト展のメドがたったら、準備段階からロケをしたいと思ってはいた、が、開催計画は何度か浮上しては延期された。
具体的にキルト展のプランが動き出しだのは、一九九〇年秋からである。
一九九〇年T一月、京都の染色家のSさんが東京にやってきた。
早稲田奉仕園で、メモリアルキルトの説明とボランティア参加の呼びかけを行うためだった。
Sさんは独自のルートでアメリカのキルトに出会い、エイズに関心を持って関わるようになった人である。
「HIVと人権・情報センター」の通信には、幾度となくその活動が紹介されていたが、会うのは初めてだった。
白髪が混じった頭は、おとなしいライオソのたてがみのように波うち、立派なヒゲをたくわえていた。
変わった黄土色にむら染めしたベストを着て、おしゃれなイタリア風のズボン、かっちりしたアタッスシュケース。
芸術家ともビジネスマンともつかないファッションである。
しかし全体の印象に強いインパクトがあるので、あまり不思議だと感じない。
彼はビデオを見せつつ、キルトについて熱っぽく語った。
集まったメンバーは二〇人足らずだ。
あとでふりかえってみると、東京の「HIVと人権・情報センター」のY.Kさんや、そうそうたる人が来ていたのだが、どの人もひっそりと話を聞いているだけだった。
それなのにSさんは、晴ればれと嬉しそうで、全身から。
楽観的なオーラを発散していた。
自分自身や身近な人に感染者、がいるわけではないが、エイズに関わるようになってしまって、しかも生きいきと輝いている人に、私は初めて会ったのだと思う。
何故この人が、これほどまでに夢中になっているのか、よくわからなかった。
芸術家だからかもしれないと思った。
会場では、アフリカウガンダの歌手、フィリー・ボンゴレールターヤが、エイズ啓蒙キャンペーンを行って亡くなるまでを描いたテレビのドキュメンタリー番組「アフリカに生まれて」)のビデオも流した。
Sさんが絶賛している、番組のなかでくりかえし歌われる歌「アローン」は、清らかな旋律でたしかにすばらしかった。
しかし私には不安があった。
外国のエイズキャンペーンが輸入された時、日本人にどう受け入れられるだろうか。
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